南予地方の闘牛の起源については、17世紀の後半頃、宇和海を漂流していたオランダ船を福浦の漁民が救助し、その礼として贈られた2頭の牛がたまたま格闘したことにより始まった、との口伝があり、鎌倉時代に農民が農耕用の強い和牛をつくることから自然に野原で牛の角を突き合わせ、これを娯楽にしていたとの説もある。闘牛が牛の闘争本能による自然発生的なものであることからすれば、起源は農耕用の牛の導入とともに始まったと考えるべきであろう。
土俵を設けた本格的な闘牛が享和年代に行われていたことは藩政時代の古文書にも記されているが、安政3年(1856年)、郡奉行より代官に宛てた文書には「近頃牛突合せ繁々相催し 互いに勝負を争い候趣 夫れが為に牛売り買い高値に相成り その外 時々米銭の費も少なからざる これに相聞くが左様の事相長く候ては 先々難渋いたし候」云々とあり、興行化した闘牛が人々を熱中させていたことが窺われる。
明治・大正期には闘牛の禁止ないしは規制が繰り返されたが、庶民の闘牛熱はきわめて盛んで、大正期から昭和初期には最盛期を迎え、「突き合い」などと呼ばれ市民にとって身近な娯楽であった。昭和の初め、宇和島には、代表的な闘牛場であった「和霊土俵」のほか、山際、保手に土俵があったが、簡素な竹柵を設置した「突き合い駄場」と呼ばれる施設も谷ごとに設けられていた。正月場所と夏の和霊大祭場所は特に賑わい、客席は手弁当や一升瓶を提げた観客であふれ、二時間に及ぶ大勝負にもやんやの喝采を送ったといわれる。昭和23年、連合軍総司令部(GHQ)により動物愛護などを理由に闘牛は禁止されたが、愛媛、隠岐、越後の闘牛関係者等から陳情が繰り返され、2年後には解禁となった。
宇和島(南予地方)の闘牛は、獅子文六が終戦直後に発表した小説『てんやわんや』の大ヒットや、西宮球場への宇和島闘牛の遠征興行をフィクション化した井上靖の『闘牛』(昭和25年芥川賞受賞)によって全国的に注目され、知名度を高めた。闘牛という名称が定着し始める一方、農業の機械化と都市化が急速に進み、これに伴い闘牛は衰退に向かい、昭和30年春の和霊土俵場所を最後に闘牛大会は幕を閉じた。
昭和34年、闘牛復活の気運が盛り上がり、宇和島闘牛振興委員会が発足、大会(興行)が再開された。昭和49年には「宇和島市闘牛運営審議会」が設立され、翌50年3月、宇和島市は全国にさきがけて全天候ドーム型の闘牛場を完成させた。これより、定期的な闘牛大会、申し込みによる随時の観光闘牛が開催され、施設の斬新さやおりからの国内観光ブームもあって、宇和島の闘牛は再び活況を呈した。
昭和50年代後半、闘牛飼育者の減少、後継者不足、国内観光の陰り、不況等によって宇和島の闘牛は衰微に傾いたが、昭和60年、民間主導の「宇和島観光闘牛協会」が発足、宇和島市及び近隣町村の闘牛飼育者及び県外在住の闘牛オーナーが会員となり、地域観光への寄与並びに闘牛文化の保存伝承を目的に闘牛運営を継承した。
平成3年10月20日「市制70周年記念・全国闘牛大会」を、平成5年4月4日「第2回全国闘牛大会」を開催し、宇和島闘牛の活性化と周知宣伝に努め、平成7年11月、文化庁により、愛媛県南予地方の闘牛習俗が「記録作成等の措置を講ずるべき無形の民俗文化財」に選択された。
平成10年8月、島根県隠岐郡西郷町の提唱により「全国闘牛サミット協議会」が発足、関係市町村において「全国闘牛サミット・全国闘牛大会」が開催される運びとなり、宇和島市は、築城400年祭記念事業として平成12年11月12日「第3回全国闘牛サミット・全国闘牛大会」、えひめ南予いやし博2012の記念イベントとして、平成24年7月24日「第15回全国闘牛サミットin宇和島全国闘牛大会」を、えひめ南予きずな博の連携イベントとして、令和4年10月23日「第25回全国闘牛サミットin宇和島記念闘牛大会」を開催した。